五郎正宗解説

ページ番号1001880  更新日 平成28年1月24日

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本名 岡崎正宗 生没年不詳

鎌倉時代末期の刀工号は五郎入道

名は藤三郎 相模の人

父行光の死後、新藤五国光(行光の師匠)について鍛錬の秘法を学び、のちに鎌倉で幕府御用の刀工として一生を終える。

(日本史小辞典より)

(五郎幼少の頃)

八木節の五郎正宗の物 語では京都三条通りで橘屋と言う宿屋稼業の娘の子供として生まれる。長引く戦乱にて 三条通りは焼け野原となり、五郎親子は裏店住まいとなり、貧しい生活をおくる。父親 がいないと言うので近所の子供たちのいじめにあい、つらい時代をおくる五郎には、な ぜ父親がいないのか母に懇願して父親のいることを知る。父 親のいることを知った五郎は1日でも早く父親に会いたいと母親に泣いてたのみ関東に下る。途中母親は持病の病にて他界するが、死ぬ間際に父の形見と短刀を五郎に持たす。

母と別れた五郎は西も東も知らない土地で途方にくれていると、桶屋の爺が通 りかかって助けてくれた。桶屋の手伝いをしながら、しばらく五郎は暮らすが、父に会いたいことを桶屋の爺に話し、桶屋をやめて、鎌倉雪の下の刀鍛冶屋行光の弟子となる。

(師匠行光と母親との関係)

師匠行光が京都に刀鍛冶研修の旅に出た時、 三条通り、橘屋と言う宿屋に泊まっていた。いつしか橘屋の娘と恋仲となり深い仲にな った。行光は研修の旅も終り鎌倉にかえる時、私を尋ねる時はこの短刀を持ってきなさいと五郎の母親にくれて、行光は京都をはなれる。行光は娘に子供ができたことは知るよしもなく、数年の歳月が流れた。

(五郎と行光)

ある日、盆の休みで、多くの弟子がそれぞれの故郷にかえり、かえる所のない五郎だけが 残る。五郎と盆休みをおくる行光は、五郎の身の上話しを聞いて不思議に思い、五郎が持っている短刀を調べ、自分の子供であることを知り、あらためて親子の名乗りをする。

(五郎と継母お秋)

お秋は行光と五郎の話を影で聞いて仰天する。主人行光に女性がいて、しかも子供までいたことに大きな衝撃を受けて病いとなりて床に伏す。

五郎は母の病気を治そうと京都伏見のお稲荷様に毎夜、井戸にいって水をかぶり、早く病気が治りますようにと願掛けしていた。ある夜、お秋が五郎の祈りを見ていて、私を呪い殺すのかと思い、五郎を折檻するが、いつしか私のためにお祈りをしてくれることを知り、病気もしだいに快方に向かいやがて全快した。

五郎は母の病気が治ると、今まで以上に父と刀剣作りに精を出した。刀鍛冶としての頭角をあらわしはじめた頃、師匠行光が病に倒れ、他界してしまった。師匠行光が他界したあと 、多くの弟子たちも 次々と去り、ついに五郎一人となってしまった。そこで、五郎は母お秋に相談し、行光の師匠である新藤五国光の弟子となり、鍛錬の秘法を学び、日本一の刀剣鍛冶になった。

正宗の名刀は特徴として身幅が広く、人を危めるのではなく、人の心を和ます力を持っおり、室町時代から江戸時代にかけて尊重され、国宝、重要文化財の指定の遺品も多い。

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