桐生市の埋蔵文化財について

ページ番号1001932  更新日 平成28年1月24日

印刷大きな文字で印刷

写真:縄文時代後期土偶頭部

桐生市は群馬県の東部で栃木県と接している。関東平野の北端で足尾山地の麓にあたる。北部の標高千メートル余りの根本山を頂点に、東西は足尾山地から派生する山々によって囲まれ、南辺には西から東へ向かって渡良瀬川が流れる。その右岸域沿いには八王子丘陵と呼称される小さな山並みが連なる。

山間には渡良瀬川の支流である桐生川や山田川などの大小河川が流下し、これらによって開析された谷間には扇状地や河岸段丘が発達している。

平成元年度から4年度にかけて市内遺跡の悉皆調査を実施した結果、264箇所の埋蔵文化財包蔵地が確認された。遺跡地の多くは大小河川をのぞむ丘陵上や段丘上であるが、従来では考えられないような低い台地から発見されたものもある。

縄文時代164遺跡のほか、弥生時代27遺跡、古墳時代30遺跡(墳丘23・集落跡7)、奈良・平安時代69遺跡、中世城郭跡37箇所が報告されているが、その多くは時代が重複している。その後、未確認であった旧石器時代の遺跡が2箇所において発見されるなど、新たに確認されたものもある。


写真:縄文時代後期土偶頭部

桐生で確認された旧石器時代の遺跡は終末期で、いずれも渡良瀬川右岸にあたる。桐生川上流の洞窟遺跡からは氷河期の絶滅したナウマンゾウ、オオツノジカなどの大型獣の化石骨が発見されているが、旧石器時代と断定できる遺物は出土していない。

他の時代に比して縄文時代の遺跡が多いのは、山に囲まれた環境が当時の生活を支えていた狩猟や採取に適していたことによると思われ、草創期から晩期までたどることができる。なかでも晩期の千網谷戸遺跡の出土品は質量ともに他の遺跡を圧倒し、その一部は重要文化財に指定されているが、大型の土製耳飾は縄文時代を代表する工芸品の一つとして高く評価されている。

弥生時代は水田耕作による農耕社会の成立期であり、遺跡の立地にも変化が見られるようになる。弥生時代後期には集落跡が極端に減少するが、これは桐生の地形が水田に不適であったためと考えられる。
古墳時代になっても遺跡は少なく、古墳そのものも旧状をとどめるものはわずか3基である。しかし賀茂神社古墳からは金銅製の環頭太刀飾や埴輪像など優れた遺物が発見され、新宿の稲荷塚古墳からは直刀や水晶製の玉なども出土している。

奈良時代も遺跡の数は少ないが、清水西遺跡では粘土の採掘跡から製鉄炉跡、鍛冶跡など製鉄に関わる一連の遺構が発見され、また童子原遺跡でも鍛冶跡が見つかっている。これらの奈良時代の製鉄遺跡は県内でも発見が少なく、特異な例となっている。

平安時代になると遺跡数も多くなり市域全体に展開するようになるが、いずれも小規模である。桐生は水田耕作が不適で、大集落跡を形成することができなかったようである。しかし、菱地区を中心した須恵器の窯跡や大規模な製鉄跡からは専門的な技術者集団の存在が想起され、このことは注目に値するといえる。

桐生市を取り囲む山間部には、桐生城を中心とした中世の城郭が点在している。平坦地では館跡や掘立柱の建物跡の遺構とともに、瀬戸や常滑のほか中国製の染付けや青磁などの陶磁器が発見されなど、文献では知ることができない当時の生活を垣間見ることができる。


写真:縄文時代晩期土版

江戸時代初期と推定される彦部住宅主屋の解体修理にともう発掘調査では、雨落ち、便所、流しなどの当初の遺構のほか、江戸時代から明治時代にかけての染色施設までが発見され、調査結果は建物の復原に大きな影響を与えている。また、桐生織物の近代化を示す明治24年の水力発電所跡の近くからは煉瓦積遺構が発掘され、埋蔵文化財としての対象範囲は拡大している。

発掘調査による桐生の歴史は、約1万6千年前の旧石器時代から近代まで途絶えることがない。

ご意見をお聞かせください

質問:このページの内容は役に立ちましたか?
質問:このページの内容はわかりやすかったですか?
質問:このページは見つけやすかったですか?

このページに関するお問い合わせ

教育委員会教育部 文化財保護課
〒376-8501 群馬県桐生市織姫町1番1号
電話:0277-46-1111 内線:622 ファクシミリ:0277-46-1109
お問い合わせは専用フォームをご利用ください。