村名「新里」の由来

ページ番号1002951  更新日 平成28年1月26日

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『新里村百年史』(平成7年刊)より

村名「新里」の由来

「新里」という村の名前は明治二十二年の町村制施行のときに初めて登場した。

昭和四十九年に発行された『新里村誌』には「新里村の『新』は新川の新にして『里』は野村の里なり」という説が紹介されていて、村のなかには現在でもこれが村名の由来であると思っている人が多い。これは誤りだと思われる。新川の「新」はともかくとして、野村の野の偏にすぎない字が「里」の由来だというのはこじつけと見るのが妥当であろう。

前記の説は大正十五年に謄写版で印刷刊行された『新川郷土誌料』に拠っている。『新川郷土誌料」は新川地区の有識者が共同編さんした郷土誌で、村内の大字聞の利害対立が激しかった当時の事情を反映して、新里村全体よりも新川地区の側に立つた記述が多いことに注意しなければならない。

県立文書館に所蔵されている群馬県庁文書には明治二十二年の町村合併に関する資料も多い。これによって「新里村」という村名の由来を追ってみよう。

合併前年の明治二十一年八月までに東群馬・南勢多郡役所が作成した合併諮問案では、赤城南麓に広がっている現在の粕川村の七か村(当時は現在の大字が村だった)と新里村の野村を除く10か村が一つとなり、村名は「山上村」とする予定であった。もちろん、役場は山上村に置かれる予定であった。この案の10か村合併だとすると、地理的には山上が中心に位置することになるからである。「山上村」の由来については、「山上村ハ大村ニシテ近傍ノ村々往古山上ノ郷ニ属スト云フ」として歴史的名称を採用している。なお、野村は現在の赤堀町に合併することになっていた。

しかし、住民代表であった各村の総代人の意見を聞いたところこの合併案には反対が多く、結局、現在の新里村と粕川村とに分立した。「山上村」は幻の村名となった。また、小林村と武井村の総代人は水利で共通する上・下の東田面村や膳村・中村などとともに粕川村への合併を希望していたが、両村を除くと資力が弱体化し地形も凹形となってしまうと主張す

「新里村」の他の総代人の強い要望を受けた郡当局の決断でこの二村は新里村に編入された。野村は住民の要望で編入となった。こうした複雑な経過を経て11か村合併による新里村が誕生したのである。こうして見ると、役場が武井村の上武井に選定されたことも、「新里村」という村名が「数村ヲ合併シテ新タニ一村ヲ組織スルヲ以テ新里ト名ヅク」という理由で選定されたこともうなづけよう。

「新里村」という村名は明治二十一年八月二十七日付けで県知事あてに提出された、新川・山上・鶴ケ谷・大久保・関・奥沢・板橋の各村総代人による合併承諾の答申書に初めて出てくる。つまり、「新里村」という村名は、多くの村が合併して成立する新村の融和を望んだ住民代表が考えた名前であったといえる。

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