森山 芳平(もりやま よしへい)【キッズページ】

ページ番号1012569  更新日 平成31年3月25日

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写真:森山芳平

安政(あんせい)元年(1854年)~大正(たいしょう)4年(1915年)

山田郡今泉村(やまだぐんいまいずみむら)、今の東二丁目の機屋(はたや)森山芳右衛門(もりやまよしえもん)の長男として生まれました。

15才で家業(かぎょう)をつぎ、桐生で初(はじ)めてジャガード機(き)を導入(どうにゅう)しました。また、前橋(まえばし)にできた群馬県医学校(ぐんまけんいがっこう)まで毎週歩いて通い、化学染色法(かがくせんしょく)を習得(しゅうとく)しました。
本格的(ほんかくてき)な染色法を身(み)につけるため、明治(めいじ)19年(1886年)に開設(かいせつ)した桐生織物講習所(きりゅうおりものこうしゅうじょ)の設立(せつりつ)にも力をつくしました。

芳平は、国内外の博覧会(はくらんかい)に織物を出品(しゅっぴん)し、明治16年(1883年)にはアムステルダム万国博覧会で一等賞金牌(いっとうしょうきんぱい)を受賞(じゅしょう)しました。
明治26年(1893年)にはコロンブス世界博覧会(せかいはくらんかい)に政府(せいふ)からのたのみで「花卉図卓被(はなくさずたくひ)」という作品を出品しました。
明治21年(1888年)には、皇居御用品(こうきょごようひん)の窓(まど)かけ地の注文(ちゅうもん)を受(う)け、芳平をふくめ桐生織物の発展期(はってんき)の三功労者(こうろうしゃ)とされる藤生佐吉郎(ふじうさきちろう)、横山嘉兵衛(よこやまかへい)とともに製造(せいぞう)しました。

また、織物技術(おりものぎじゅつ)のふきゅうのため、輸出羽二重(ゆしゅつはぶたえ)の技術を各地(かくち)に伝(つた)えました。特(とく)に福井県(ふくいけん)には、一番弟子の高力直寛(こうりきなおひろ)を派(は)けんするとともに、山形県には父芳右衛門が自(みずか)ら技術指導(ぎじゅつしどう)にあたりました。芳平父子のこうした業績(ぎょうせき)をたたえるため、高力直寛が発起人(ほっきにん)となり、高力と伝習生(でんしゅうせい)たちにより、しょう功(こう)ひがしき地内に建(た)てられました。

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