星野 長太郎(ほしの ちょうたろう)【キッズページ】

ページ番号1014534  更新日 令和4年1月28日

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写真:ほしのちょうたろう

弘化(こうか)2年(1845年)~明治(めいじ)41年(1908年)

水沼村(みずぬまむら)、今の黒保根町(くろほねちょう)水沼に生れました。父は弥平(やへい)といい、家は代々(だいだい)地方役人(ちほうやくにん)をつとめるごう農(のう)でした。

「国益増進(こくえきぞうしん)は製糸改良(せいしかいりょう)にある」という自分の考えをつらぬき、生糸の生産・輸出(せいさん・ゆしゅつ)による郷土(きょうど)のしん興(こう)を目ざしていました。
前橋藩(ばえばしはん)による大渡洋式器械製糸場(おおわたりようしききかいせいしじょう)で器械製糸の技術(ぎじゅつ)を学び、明治7年(1874年)に水沼製糸所を始めました。民間(みんかん)では初めての器械製糸でした。

当時(とうじ)、品質(ひんしつ)がよくないと評価(ひょうか)が下がっていた日本製糸の品質を改良し、供給力向上(きょうきゅりょく)に力をつくしました。
明治9年には、国策(こくさく)により、アメリカ合衆国(がっしゅうこく)へ生糸を直接(ちょくせつ)輸出しました。弟の新井領一郎(あらいりょういちろう)をアメリカ合衆国に行かせて、日本生糸の信用(しんよう)をとりもどしました。
また、全国(ぜんこく)から受け入れた伝習女工(でんしゅうじょこう)の養成(ようせい)にじん力しました。

明治12年に県会(けんかい)が開(ひら)かれると議員(ぎいん)に当選(とうせん)、副議長(ふくぎちょう)となりました。明治37年には衆議院(しゅうぎいん)議員になりました。

起業家(きぎょうか)としての先見の明(せんけんのめい)と公共奉仕(こうきょうほうし)の信念(しんねん)に富(と)み、国内外のすぐれた知見(ちけん)や豊(ゆた)かな経験(けいけん)をいかして、事業拡大(じぎょうかくだい)とともに頭角(とうかく)を現(あらわ)して中央政界(ちゅうおうせいかい)との太い人脈(じんみゃく)をきずきました。
また、明治6年には群馬県第二番学校(ぐんまけんだいにばんがっこう)といわれる水沼学校の設置(せっち)を実現(じつげん)させました。

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