野間 清治(のま せいじ)【キッズページ】

ページ番号1012582  更新日 平成31年3月25日

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写真:野間清治

明治(めいじ)11年(1878年)~昭和(しょうわ)13年(1938年)

山田郡新宿村(やまだぐんしんしゅくむら)、今の小梅町(こうめちょう)に生まれました。
両親(りょうしん)とも剣客(けんかく)で、剣道(けんどう)を生がいの友とする素質(そしつ)とかん境(きょう)が幼少期(ようしょうき)からありました。
清治は、『南総里見八犬伝(なんそうさとみはっけんでん)』をくり返(かえ)し読み、生がいの座右(ざゆう)の書として、じゅ学を基(き)ばんとしたおもしろく、ためになる雑誌(ざっし)づくりの指針(ししん)としました。

その後、小学校の教師(きょうし)を歴任(れきにん)し、明治39年(1906年)には沖縄県視学(おきなわけんしがく)(教育行政官(きょういくぎょうせいかん))、明治40年(1907年)には東京大学法科(ほうか)大学主席書記(しゅせきしょき)となりました。
明治42年(1909年)、大日本雄弁会(だいにほんゆうべんかい)を創立(そうりつ)し、次の年、雑誌『雄弁』を発行(はっこう)しました。
明治44年(1911年)には、講談社を創立し、雑誌『講談倶楽部(こうだんくらぶ)』がベストセラーとなりました。その後も『キング』や『少女倶楽部(しょうじょくらぶ)』、『婦人(ふじん)倶楽部』などはば広い読者(どくしゃ)に向(む)けた雑誌を発行し、「日本の雑誌王」とまで言われ、雑誌の大衆化(たいしゅうか)につとめました。

郷土愛(きょうどあい)が強く、地元から多くの有能(ゆうのう)な人材(じんざい)を登用(とうよう)しました。また、少年部(しょうねんぶ)をつくって、剣道(けんどう)を通して少年社員(しゃいん)の教育訓練(くんれん)にもつとめました。

清治によってつくられた東京音羽(とうきょうおとわ)の野間道場は、今でも、清治の精神(せいしん)をけい承(しょう)しつつ、剣道のふきゅうのため開放(かいほう)されています。

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