三丁目祇園屋台・翁鉾

ページ番号1001862  更新日 平成28年1月24日

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写真:三丁目祇園屋台

三丁目祇園屋台

安政6年(1859)に完成しました。彫刻師は石原常八(一・二丁目は常八一門)襖絵の画家は前原互瀬と頼陽斎、扁額の書家は江戸で活躍中の中沢雪城と小野湖山。三丁目だけが千鳥破風で金塗りという桐生では、珍しい様式です。何十年も組み立てることなく眠っていますが、近い将来が楽しみです。
(解説:奈良 彰一)

翁鉾

文久2年(1862)に完成しました。頭(かしら)は頼朝、面(おもて)は翁であることから翁鉾と呼ばれています。江戸型山車の流れをくみシンプルな構造です。二層の四万幕と三味線胴というものですが、本町三丁目が所有する祇園屋台と同じく石原常八の彫刻です。桐生では珍しく金塗りとなっています。屋台を安政6年(1859)に完成させましたが、同時進行でこの鉾の彫刻を手がけていたのは驚きです。屋台建造の計画時に鉾も造るというプランがすでにできていたのです。当時この地に佐羽吉右衛門という豪商がいましたので、この人の力無くして成り立たなかったでしょう。江戸から京都、横浜に幅広い人脈と文化的資質をもっていたことはよく知られていました。
こうして祇園祭では稀な屋台と鉾という異質な二台のものを所有することになり、隣町の四丁目はこれに影響を受けたのです。
(解説:奈良 彰一)

写真:烏帽子を被った頼朝の面

写真:笑う翁の面

人形師は和泉屋勝五郎(号桃源斎正山)といい、桐生新町四丁目に住んでいました。「和泉屋」については江戸の雛人形問屋仲間の記録に、寛政2年(1790)江戸十軒店雛市で、幕府禁制を犯した人形屋で「和泉屋庄五郎」という名があり、また文政8年(1825)に人形芝居の細工人「和泉屋五郎兵衛」が登場しているところから、その系統を引くものと思います。さらに甲府の亀屋座の「和泉屋二良兵衛」、結城の人形芝居の「和泉屋清吉」等の一門ではないかとも考えられています。
「和泉屋勝五郎」の頭は操り人形の特徴の、面長で江戸の伝統を最も良く残しているともいわれています。
桐生新町六丁目の林長右衛門(号梅寿軒琳斎)寛政2年(1790)~明治5年(1872)は文政期江戸に出て関東取締出役の手先として活躍し、傍ら操り人形芝居を修業し、また絹笠類左衛門の芸名で名手として知られていました。そして天保12年(1841)家督を継ぎ、長右衛門を襲名したのです。
嘉永3年(1850)8月に桐生新町で花会を催し、操り人形芝居を演じています。この林長右衛門と「和泉屋勝五郎」は深いつながりがあるものと思われます。
(解説:山鹿 英助)

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