佐羽 喜六(さば きろく)【キッズページ】
安政(あんせい)5年(1858年)~明治(めいじ)33年(1900年)
下野国足利郡葉鹿村(しもつけのくにあしかがぐんはじかむら)、今の足利市に生まれました。
14才の時に桐生の買次商(かいつぎしょう)佐羽商店(さばしょうてん)に奉公人(ほうこうにん)として入りました。その後、佐羽家のむすめむことなり、佐羽喜六(さばきろく)と名のるようになりました。
商売熱心(しょうばいねっしん)で、桐生織物(きりゅうおりもの)の発展(はってん)や日本経済(にほんけいざい)の発展を見すえ、ヨーロッパやアメリカにわたって、外国製(がいこくせい)ジャガードやピアノマシンを輸入(ゆにゅう)するなど、織物の技術向上(ぎじゅつこうじょう)に大きな役割(やくわり)をはたしました。
明治20年(1887年)には、小野里家などと、新しい技術と経営方法(けいえいほうほう)をとり入れた日本織物会社を設立(せつりつ)しました。1200ヘクタール以上の広大な土地に、織物のすべての工程(こうてい)を行う工場をつくり、多い時で600人以上の従業員(じゅうぎょういん)がいました。
清国(しんこく/今の中国)から輸入された南京繻子(なんきんしゅす)よりやすくて品質(ひんしつ)の高い「織姫繻子(おりひめしゅす)」を作りました。
明治27年(1894年)には、織姫繻子を宣伝(せんでん)するため、東京明治座(とうきょうめいじざ)でしば居(い)を上演(じょうえん)し、売上げものびたといいます。しかし、
明治33年(1900年)清国に出張(しゅっちょう)したとき、船の事故(じこ)で亡(な)くなりました。
かつての日本織物会社の土地には今、市役所(しやくしょ)や病院(びょういん)、文化会館(ぶんかかいかん)がたちならび、その一角にある旧織姫神社(きゅうおりひめじんじゃ)の境内(けいだい)に、明治34年(1901年)に喜六のしょう徳(とく)ひがたてられました。
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