新井 領一郎(あらい りょういちろう)【キッズページ】

ページ番号1012570  更新日 平成31年3月25日

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写真:新井領一郎

安政(あんせい)2年(1855年)~昭和(しょうわ)14年(1939年)

水沼村(みずぬまむら)、今の黒保根町(くろほねちょう)水沼のごう農(のう)星野弥平(ほしのやへい)の六男として生まれました。星野長太郎(ちょうたろう)は兄になります。

12才で下田沢村(しもたざわむら)の生糸商(きいとしょう)新井系作(あらいけいさく)の養子(ようし)となりました。17才で英学校(えいがっこう)、20才で東京開成学校(とうきょうかいせいがっこう)の門をくぐるなど、勉学(べんがく)にはげみました。

明治(めいじ)9年(1876年)には、生糸の直輸出(ちょくゆしゅつ)を計画(けいかく)していた兄長太郎の指示(しじ)によりアメリカに行って、新井商会(あらいしょうかい)を経営(けいえい)、日本だけでなく世界的(せかいてき)な生糸業者(きいとぎょうしゃ)となって活やくしました。
アメリカ絹業協会(けんぎょうきょうかい)の役員(やくいん)として選出(せんしゅつ)されるなど、日米のかけ橋(はし)となり、交流事業(こうりゅうじぎょう)にも力をつくし、生がいをアメリカで過(す)ごしました。
アメリカ行きにあたっては、当時の群馬県令(ぐんまけんれい)揖取素彦(かとりもとひこ)の助(たす)けがありました。また、素彦の妻が吉田松陰(よしだしょういん)の妹であったことから、アメリカ行きの夢(ゆめ)を果(は)たすことなく亡(な)くなった松陰の形見の短刀(たんとう)を領一郎におくり、その夢をたくしたと言われています。日本生糸の品質(ひんしつ)と良心的商法(りょうしんてきしょうほう)を海外に広め、信(しん)らいと市場を拡大(かくだい)するなど国益(こくえき)にも役立(やくだ)つ働(はたら)きをした日本生糸のはん売の先がけとなった人です。

日本に初(はじ)めてゴルフを広めた人とも言われています。

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