坂口 安吾(さかぐち あんご)【キッズページ】

ページ番号1012583  更新日 平成31年3月25日

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写真:坂口安吾

明治(めいじ)39年(1906年)~昭和(しょうわ)30年(1955年)

新潟市西大畑町(にいがたしにしおおはたちょう)に生まれました。

父仁一郎(にいちろう)が病(やまい)にたおれると、文学への関心(かんしん)がふかまり、東洋大学(とうようだいがく)、アテネ・フランセに通い勉学(べんがく)にはげみました。
昭和6年(1931年)、その校友と同人雑誌(ざっし)『青い鳥』を創刊(そうかん)し、『風博士(かぜはかせ)』『黒谷村(くろたにむら)』を発表し、文だんデビューをはたしました。
昭和21年(1946年)には『堕落論(だらくろん)』『白痴(はくち)』を発表(はっぴょう)して、新文学の旗手(きしゅ)となりました。
伊東競輪不正告発(いとうけいりんふせいこくはつ)のために桐生(きりゅう)にそ開(かい)していた南川潤(みなみかわじゅん)をたより、そのことがきっかけで桐生を気に入り、昭和27年(1952年)に桐生の本町二丁目の書上文左衛門(かきあげぶんざえもん)の家に移住(いじゅう)しました。

『信長(のぶなが)』『夜長姫(よながひめ)と耳男(みみお)』など精力的(せいりょくてき)なしっ筆(ぴつ)活動(かつどう)をつづける一方で、いそがしさのためにうつ病(びょう)にもなりました。しかし、長男が生まれたことで人生観(じんせいかん)が変わり、心やすらかな日々をすごしました。
昭和30年(1955年)2月17日、脳出血(のうしゅっけつ)のため桐生の家でたおれ、48才で亡(な)くなりました。その地には「千日往還(せんにちおうかん)の碑(ひ)」がたてられています。桐生に来ておよそ3年弱の生活でしたが、安吾文学は今でも光をはなっています。

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