球都桐生(きゅうときりゅう)の名声【キッズページ】

ページ番号1012592  更新日 平成31年3月25日

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桐生市(きりゅうし)は、織物(おりもの)のまちとして栄(さか)えたことで「織都桐生(しょくときりゅう)」とよばれますが、ほかにも「球都桐生(きゅうときりゅう)」ともよばれています。
戦前(せんぜん)、桐生織物がもっとも栄えていたころ、織物の関係者(かんけいしゃ)が取引先(とりひきさき)との間でいつも話題(わだい)になっていたのが球都桐生だったということです。
昭和(しょうわ)3年(1928年)に、体育協会(たいいくきょうかい)の初代会長(しょだいかいちょう)の堀祐平(ほりゆうへい)が、自分の財産(ざいさん)を投(とう)じてつくられた新川運動場内(しんかわうんどうじょうない)の野球場(やきゅうじょう)も、球都桐生に大きな役割(やくわり)をはたしました。

写真1
全国都市対抗野球大会で準優勝した
全桐生社会人野球チーム(昭和21年)

稲川東一郎(いながわとういちろう)がひきいた旧制桐生中学校(きゅうせいきりゅうちゅうがっこう)、今の桐生高等学校(きりゅうこうとうがっこう)は、昭和2年(1927年)の全国中等学校優勝野球大会(ぜんこくちゅうとうがっこうゆうしょうやきゅうたいかい)で甲子園(こうしえん)にはじめて出場しました。
その後の昭和11年(1936年)の春の大会では、準優勝(じゅんゆうしょう)の成績(せいせき)をおさめ、桐生中と稲川監督(いながわかんとく)の名声は全国に広まりました。

終戦後(しゅうせんご)、稲川監督のところには、桐生中のOBたちがあつまり、「全(オール)桐生」のチームが結成(けっせい)されて、昭和21年(1946年)の「全国都市対抗野球大会(ぜんこくとしたいこうやきゅうたいかい)」では、強(きょう)ごうチームをつぎつぎと破(やぶ)り、決勝(けっしょう)まで進(すす)みました。この活(かつ)やくをきっかけに、市内では町内野球チームがぞくぞくと結成され、昭和23年(1948年)には、今でもつづいている「町内対抗野球大会」が開さいされるなど、戦後のあれた世(よ)の中のなかで、全桐生の活やくは、市民(しみん)に明るい話題と明日への活力をあたえてくれました。

イラスト:バットを持つキノピー

また、戦争(せんそう)で中止となっていた夏の全国中等学校野球大会(ぜんこくちゅうとうがっこうやきゅうたいかい)も、昭和21年(1946年)から再開(さいかい)され、桐生工業学校(きりゅうこうぎょうがっこう)、今の桐生工業高等学校(きりゅうこうぎょうこうとうがっこう)が全国大会に出場したのをはじめ、その後も桐生工業高校、桐生高校とも何度(なんど)も甲子園に出場し、県内高校野球界をけん引(いん)しました。
特に、桐生高校は、今までに春・夏を合わせて26回の甲子園に出場していて、今でも県内でもっとも多い出場回数の記録を残(のこ)しています。

写真2
甲子園で優勝した桐生第一高校
(平成11年)

また、平成(へいせい)11年(1999年)の「第81回全国高等学校野球選手権大会」では、桐生第一高校が群馬県では初めての全国優勝をしました。その後も何度(なんど)も甲子園に出場していて、球都桐生を今でも全国に印象(いんしょう)づけています。

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