桐生市(きりゅうし)の歴史(れきし)【キッズページ】

ページ番号1014728  更新日 令和2年11月20日

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桐生市の歴史

大むかしの桐生

写真:新里町(にいさとちょう)で見つかった槍(やり)の先
新里町(にいさとちょう)で見つかった
2万年前の槍(やり)の先

桐生には、およそ2万年前から人々が暮(く)らしていました。
このころの人々は、石器(せっき)や土器(どき)を作り、魚や動物(どうぶつ)、木の実(み)をとっていましたが、やがて農耕(のうこう)をしながら生活するようになりました。


古墳時代(こふんじだい)

桐生には100メートルをこえるような大きな古墳はなく、小さな円墳(えんぷん)や方墳(ほうふん)がつくられます。新里(にいさと)では新川臣(にっかわのおみ)という豪族(ごうぞく)があらわれました。

※1 円墳:まるい形の古墳
※2 方墳:しかくい形の古墳

奈良時代(ならじだい)

このころから桐生で鉄(てつ)がつくられるようになります。また、武井廃寺塔跡(たけいはいじとうあと)など仏教(ぶっきょう)が伝(つた)わっていたことがわかります。

平安時代(へいあんじだい)

山上多重塔
山上多重塔(やまかみたじゅうとう)

山上多重塔(やまかみたじゅうとう)にあるように漢字(かんじ)がつかわれるようになります。賀茂神社(かもじんじゃ)や美和神社(みわじんじゃ)がつくられ、この時代の終(お)わりには桐生六郎(きりゅうろくろう)という武士(ぶし)があらわれます。


鎌倉時代(かまくらじだい)

園田氏(そのだし)や山上氏(やまかみし)など武士が地方をおさめる時代になります。崇禅寺(そうぜんじ)や西方寺(さいほうじ)など浄土宗(じょうどしゅう)のお寺がつくられるようになりました。

室町時代(むろまちじだい)

桐生氏(きりゅうし)が約(やく)220年にわたり桐生地方全体(ぜんたい)をおさめた後、由良氏(ゆらし)がひきつぎます。この時代には仁田山紬(にたやまつむぎ)という織物(おりもの)が織(お)られていました。

江戸時代(えどじだい)

桐生新町(きりゅうしんまち)がつくられ、殿様(とのさま)がいないまちとして発展(はってん)しました。織物をつくるために新しい技術(ぎじゅつ)をうみだし、日本でも指(ゆび)おりの機(はた)どころになります。

明治時代(めいじじだい)

西洋(せいよう)の技術やしくみをとりいれ、生糸(きいと)や織物を海外に輸出(ゆしゅつ)するようになります。生活も豊(ゆた)かになり、電気や鉄道(てつどう)、電話、学校など近代化(きんだいか)が進(すす)みます。明治22年(1889年)桐生新町と下久方村(しもひさかたむら)など4つの村が合併(がっぺい)し、桐生町ができました。

大正時代(たいしょうじだい)

写真:桐生が市になったころの本町通り(大正10年)
桐生が市になったころの本町通(ほんちょう
どお)り(大正10年)

大正10年(1921年)桐生市が成立(せいりつ)しました。


昭和時代(しょうわじだい)

写真:本町通り(昭和46年)
本町通り(昭和46年)

境野村(さかいのむら)、広沢村(ひろさわむら)、梅田村(うめだむら)、相生村(あいおいむら)、川内村(かわうちむら)、菱村(ひしむら)などが合併しました。昭和22年(1947年)から24年(1949年)にかけてカスリーン、アイオワ、キティ台風(たいふう)と3回の台風により大きな被害(ひがい)がありました。


現代(げんだい)

平成(へいせい)16年(2004年)桐生市、新里村(にいさとむら)、黒保根村(くろほねむら)の1市2村(いっしにそん)が合併し、現在(げんざい)の桐生市になりました。

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