黒保根町の文化財

ページ番号1025937  更新日 令和8年1月13日

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黒保根町には、国指定の重要文化財はありませんが、県指定の重要文化財は市内24件のうち4件が町内に、市指定の重要文化財は102件のうち9件が町内にあります。

県指定重要文化財

虚空蔵菩薩像

永禄元年(1558)の鍛造。高さは36センチメートルで、背に銘文が刻まれ、資料的にも貴重なもので、上田沢の湧丸山医光寺所蔵。元は赤城山小池蔵岳の堂宇内に安置されていましたが、明治末年、堂宇の荒廃により同寺に移されました。

紺紙金泥虚空蔵菩薩経

医光寺に伝わるもので、紺色の上に金泥で書かれている巻物で、広げると14メートルになります。すばらしい扉絵、和風のやわらかい文字など美術的にも価値の高いものです。

常鑑寺の梵鐘

寛延元年(1748)、佐野の鋳物師丸山善太郎毎昭の作。高さ85センチメートル、口径61センチメートル余。聖観音座像を半浮き彫りにするなど美術的にも価値の高い梵鐘です。

栗生神社本殿 附 棟札

栗生神社は、後醍醐天皇に仕えた新田義貞の家臣、栗生左衛門頼方公を祀る神社で、指定の本殿は棟札によると寛政2年(1790)の建築で地元出身の関口文治郎による透かし彫りや高肉彫り彫刻が施されている。

北条氏直の古文書(感状) 目黒家

天正12年(1584)黒川勢と、新田、桐生勢との戦いの戦功を賞し、北条氏直から松井新左衛門に送られたものです。松井家文書とともに中世戦乱期の黒川谷の様子を示す貴重な資料です。

北条氏直の古文書(感状) 松井家

天正12年(1584)黒川勢と、新田、桐生勢との戦いの戦功を賞し、北条氏直から松井新左衛門に送られたものです。目黒家文書とともに中世戦乱期の黒川谷の様子を示す貴重な資料です。

板碑

4基の板碑のうち、連座の下に「正和4年2月」(1315年)という銘が読めるものがあり、黒保根地区にある板碑の中で最古のもので、鎌倉時代の石造物として歴史的価値の高いものです。

八木原龍禅寺の喚鐘

昭和18年の金属回収のおりに供出したものが、何らかの理由により大阪府寝屋川市成田山明王院に引き取られていましたが、「・・・八木原大悲院龍禅寺・・・」と明記されていたことから、八木原住民の努力と明王院の計らいにより平成6年2月に龍禅寺に戻りました。

医光寺本堂の彫刻欄間

医光寺本堂の彫刻欄間は、厚肉の透かし彫りで両面図柄が施されており、中国の「二十四孝」の物語を中心に故事を題材にしている。作者は、地元上田沢出身で数多くの社寺彫刻を手がけ、当時上州の左甚五郎と称された関口文治郎有信とされている。

関口文治郎の墓

関口文治郎は、享保16年上田沢村沢入に生まれ、隣村花輪村の石原吟八郎に師事し彫物師となった。生来の素質もあってか宝暦2年には師の片腕となって妻沼聖天宮の本殿彫刻を完了した。その後聖天宮の幣殿、秩父の三峯神社、伊那の熱田神社、桐生の天満宮、黒保根の栗生神社等多くの社寺に名作を残し、榛名神社を最後の仕事として文化4年に没した。

文治郎の墓は、黒保根町上田沢の医光寺にある。

関口文治郎の半鐘

関口文治郎の半鐘は、関口文治郎有信が妻沼聖天宮の造営に際し、その大願成就を願って、宝暦2年(1752)に出生地である沢入観音堂へ寄進した半鐘である。

第二次大戦の難を逃れ、一時期上田沢地区の火の見櫓に取り付けられていたが、火の見櫓の役割を終えた昭和50年代半ばには、再び元の観音堂に戻され、保存されている。

沢入観音堂のイボ石

上田沢にあり、高さ70センチメートル、幅約70センチメートルの泥岩の中に中生代ジュラ紀(およそ1億5〜6千万年前)に形成された放散虫化石が見られる石。

化石の地層より団塊の一部が何らかの作用で母岩より離れ、沢入川を下る過程で角が取れて現在のイボ石になったと考えられる。

涌丸獅子舞「ささら舞」

江戸期(安永年間)の導入とされ、無病息災、五穀豊穣を祈る舞です。「ささら」という名称の和楽器を用いたことから「ささら舞」と呼ばれ、毎年秋に

前田原獅子舞

江戸中期、愛知県岡崎から導入したと伝えられ、五穀豊穣と家内・集落の安全を願い、毎年秋に奉納されています。

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