登録文化財について
- 名称・員数
- 後藤織物(ごとうおりもの) 9棟ほか給水塔、門・板塀
- 区分
- 登録有形文化財(建造物)
- 登録年月日
- 平成18年3月27日
- 所在地
- 群馬県桐生市東1丁目11−35
公開の案内
- 公開時間
- 午後1時~午後4時(要事前予約)
- 公開日
-
月曜日~金曜日(土・日曜日は要相談)
- 料金
- 500円
- 電話番号
-
0277-45-2406
- 駐車場
- 有り(若干)
- その他
- 駐車台数が少ないため予約時に確認願います。
後藤織物登録文化財 建造物一覧
名称 |
構造 |
建築面積 |
年代 |
---|---|---|---|
後藤織物 主屋 ごとうおりもの しゅおく |
木造2階建、鉄板葺 | 226平方メートル | 明治前期(大正14年増築) |
後藤織物 奥座敷 ごとうおりもの おくざしき |
木造平屋建、瓦葺 | 97平方メートル | 大正14年頃 |
後藤織物 工場 ごとうおりもの こうじょう |
木造平屋建、 瓦及び鉄板葺、便所付 |
720平方メートル | 昭和23年 昭和24年頃増築 |
後藤織物 東蔵 ごとうおりもの ひがしぐら |
木造2階建、瓦葺 | 64平方メートル | 明治前期(大正15年頃引屋) |
後藤織物 西蔵 ごとうおりもの にしぐら |
木造平屋建、鉄板葺 | 64平方メートル | 昭和11年頃 |
後藤織物 旧釜場 ごとうおりもの きゅうかまば |
木造平屋建、瓦葺 | 56平方メートル | 昭和24年 |
後藤織物 井戸屋形 ごとうおりもの いどやかた |
木造、鉄板葺 | 8.5平方メートル | 昭和8年頃 |
後藤織物 給水塔 ごとうおりもの きゅうすいとう |
鉄筋コンクリート造 | 5.7平方メートル | 昭和8年頃 |
後藤織物 倉庫 ごとうおりもの そうこ |
木造平屋建、瓦葺 | 20平方メートル | 大正14年以前 |
後藤織物 物置 ごとうおりもの ものおき |
木造平屋建、鉄板葺 | 55平方メートル | 大正14年頃 |
後藤織物 表門及び板塀 ごとうおりもの おもてもんおよびいたべい |
門:木造瓦葺 板塀:鉄板葺 |
門:間口45メートル 板塀:延長23メートル |
大正14年頃 |
後藤織物の歴史
後藤織物は、群馬県桐生市の繁華街、本町四丁目交差点を東に進み渡良瀬川方面へ至る途中の北側に存在する。ここは南に森秀織物工場、東に旧森山芳平工場などの存在する明治時代から続く織物工場地帯であった。
後藤織物初代後藤定吉と桐生織物の近代化
後藤定吉は嘉永元年(1848年)に生まれ、明治3年(1870年)に現在地の旧今泉村へ居を構え、機業を始めたと伝えられている。
定吉はいち早く洋式染色技術の導入をはかり桐生織物の改良を進めた。明治11年、群馬県令の許可を得て森山芳平らとともに前橋の群馬県医学校(建物は桐生に移築され、重要文化財「旧群馬県衛生所」として現存)の聴講生となり、化学の教員である小山健三から密舎染(化学染料による染織)を学び、修業証書が残されている。
明治10年には揚柳縮緬(絹綿交織)を産出し、明治12年には観光繻子を工夫して中国製の南京繻子に対抗するなど、明治初頭の桐生織物業に大きな貢献を果たした。さらに明治25年には管捲機械を発明して特許を取得し、京都の稲畑勝太郎よってアルザス工芸会員に推薦されている。
後藤家の文書の中には「伊勢神宮参拝道中日記」という記録がある。
明治16年2月4日から45日間に及ぶ旅日記で、大坂造幣局で硫酸や硝酸鉄を買い求め、さらにその製造方法を学んだことや、京都で開催中の博覧会を見学したり、西陣の機業を訪れ繻子織についての視察したことが記されている。桐生織物発展のために勉強している様子が垣間見える大変興味深い資料である。なお、硫酸は生糸をアルカリで煮たあと中和させるために必要で、また、硝酸鉄は染色に使用するものである。後藤家は明治時代から今日まで主に帯地を織ってきた。
現在は、令和3年に創業家から後藤織物を譲り受けた民間企業が、織物産業の歴史と機屋の構成を後世に伝えるため保存活用事業を行っている。
平成27年4月、文化庁が認定する『日本遺産「かかあ天下−ぐんまの絹物語−」』の構成文化財の一つとなった。
後藤織物を構成する登録物件
- 後藤織物主屋
建築年代は、初代定吉が分家として現在地に定住した明治3年と伝えられているが、年代を特定する資料は現存しない。 - 家相図
後藤織物主屋には、家の方位や増築等に関わる明治33年と大正14年の家相図が残されている。
明治33年の家相図では現奥座敷部分に増築する計画が伺え、建物平面図が上張りされている。南側の座敷四間は現在とほぼ一致し、当初と考えられる。また、井戸の位置も現在と同じである。さらに工場として並列する細長い2棟の建物が描かれているが、これは鋸屋根工場と考えられる。
大正14年の家相図の主屋は現状に近いが、土間部分はその後の改造が見られる。門の右側にあたる倉庫、釜場、東側の塀に沿った物置、工場背後の蔵、工場脇の便所、井戸館は現状と一致する。 - 織物工場ほか
昭和19年に工場のほか釜場、寄宿舎の建物を日本機械株式会社に売り渡した書類が残されている。これは太平洋戦争時の企業統制による強制的な譲渡で、便所にいたるまで供出した。
工場を戦後間もない昭和24年に再建したことは、織物工場増築工事仕様明細書によって明らかであるが、これには見積書のほか平面、小屋伏図が添付されている。仕様書には工場増設と記されているところから、主屋に隣接する切妻造の工場は昭和24年以前にすでに建設されていたと考えられる。工場に付設する便所は戦前から水洗であったようだが、これを裏付ける群馬県知事からの「水槽便所建設許可書」が2通(昭和9年1月付、昭和9年6月付)残されていた。桐生市の水道事業は昭和7年に開設され、当地区にも水道は敷設されていた。しかし染色には多量の水を使用するところから、井戸水を利用するために給水塔を設けたと考えられる。給水塔に汲み上げる動力は工場のモーターからプーリーによって行ったという。
門、板塀、竹垣は後藤織物の景観上欠くことができないものであり、明治から続く桐生の機屋の格式と歴史を伝えるものである。
後藤織物の敷地内には桐生市の機屋の構成を示す住居と事務所等を兼ねた住宅部分と織物工場に係る多くの建物が存在し、その時期も明治前期、大正14年、昭和の戦前、戦後と多岐にわたり、主屋をはじめとする建物群の構成は、染色・撚糸・製織といった織物生産のシステムをそのまま現している。
【日本遺産】かかあ天下-ぐんまの絹物語-
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このページに関するお問い合わせ
教育委員会教育部 文化財保護課
〒376-8501 群馬県桐生市織姫町1番1号
電話:0277-46-1111 内線:622 ファクシミリ:0277-46-1109
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